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IPV®について

about IPV®

開発者バード博士について

doctor

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フォレスト・バード博士は、1921 年マサチュセッツ州スタウトンの生まれで第1次大戦のパイロットであった父親の指導でペダルに足が届くか届かない子供の頃から飛行機の操縦を学び、父親の指導で、飛び始めました。14歳の誕生日には、単独飛行を行い、16歳までに飛行に必要な免許を殆ど取得してしまいました。

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フォレストは、20歳の時にパイロットとして、陸軍航空隊の航空輸送部に配属され空輸サービス部隊にも関係します。ここで戦闘機、爆撃機、輸送機などあらゆる新型の航空機を知り尽くし、やがて航空機の性能を調べるテストパイロットになりました。

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1943年に、彼はあるチャンスとめぐり会います。彼は捕獲したドイツの航空機を、イギリスから大西洋を越えてライトパターソンに空輸することを命じられました。彼は機上で見つけたドイツ製のデマンド酸素レギュレーターを自ら使ってみたのです。これはうまく作動しませんでした。これを持ち帰った彼は改良を試み、新しくデザインしたレギュレーターをB-24爆撃機に持ち込み、28,000フィートの高度でテストしたのです。彼の新モデルは、とてもうまく機能しました。

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その直後、フォレストはP-51ムスタング戦闘機を、ランドルフに空輸する機会を得ました。ランドルフで彼は自分の新デザインのレギュレーターを、近代飛行医学の権威者ハーリー・アームストロング大佐( 博士) にみせたのです。フォレストが、28,000フィートの高度でこの機器を使ってみたと話した時、アームストロング大佐は、『お前は高々度の飛行の危険性について何も知らなかったか、それともよほどの大馬鹿ものか』とコメントしたといいます。フォレストはこれに応じて、『多分その両方かも』。そこでフォレストは、生涯大きい影響をうけるアンドレ・カーナンド博士に会うことになります。軍のコンサルタントだったカーナンド博士は、フォレストの研究を生理学に方向づけたのでした。

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第2次大戦が終わると、1955年までに、フォレストはメディカルスクールで専門医学実習生のコースを収めて、博士号を取りました。Dr.バードは"バード・ユニバーサル・レスピレーター" の試作品を開発し、自家用機でいろんなメディカルスクールに持ってゆき、既知の療法は効果がなく、死を待つばかりの重症の患者さんに試してみるように担当医にお願いしたのです。バードの機器は救命に何度も成功しました。

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彼はパームスプリングに、事業所を作り、あの有名な "Bird mark 7"を開発しました。呼吸器 "バード" は小さい緑の容器で、1958年に導入されて以来、高信頼性、低価格の大量生産された最初の医療用呼吸器となって、多くの救命を果たしたのでした。

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1970 年に "ベイビーバード" 呼吸器が導入されるや、呼吸疾患を持つ新生児の死亡率は, 全世界的に70%から10%以下に減少しました。

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1978 年に博士は、大成功の無借金の彼の会社を3M社に売り渡しこの資金で新しく始めた研究の成果は、IPV®(Intrapulmonary Percussive Ventilator: 肺内パ-カッションベンチレーター)という第4世代の人工呼吸器となって結実しました。

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40年間連れ添った故バード夫人、メアリーは、博士の治療システムの最初の患者でした。彼女は主治医の予想を越えて、満足すべきクオリティー・オブ・ライフで10年以上も長く生きることができました。彼女は、生前愛娘のキャシーの幸せな結婚を見、ふたりの素晴らしいお孫さんを見ることも出来たのです。今や、バードの第4世代の呼吸器は、世界で受け入れられ、臨床に使われています。

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1995年バード博士は、その傑出した発明を讃えられて、国立発明者殿堂に殿堂入りを果たしました。

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